ふくらはぎが太いから、死んでも脚は出さない。
ピンクはかわいい子が選ぶ色。私が身に纏っていいのは黒・白・グレー・ネイビー。
平たくて地味な顔。できるだけ目を大きく見せたいけれど、選ぶアイシャドウはいつだってベージュやピンク。
美容師さんには「丸顔だから輪郭が隠れるように」とお願いする。だいたい黒髪で、ボブかセミロング。たぶん、ぱっつん前髪はアウト。
そういう風に、誰かに強いられたわけでもないのに、ずっと許されるであろう選択をしてきた。
幼少期、ショッピングセンターの服屋でフリルがあしらわれたスカートを手に取ったとき、母に言われた「あんたには似合わんよ、もっとシンプルなズボンにしとき」という何気ない一言が、うっすらと呪いとなって自分の中に留まっている。
中学生のとき、珍しく髪を結った私を見て、好きな男の子に言われた「なんか女みてぇ」。高校生のとき、彼氏に言われた「すんげぇ立派な脚だな」。大学生のとき、友達に紹介された男性に言われた「キャラに合ってないね」。
最初から、母の言葉は彼女なりの愛情だろうと理解していた。一瞬でも恋心を抱いていたとはいえ、目の前を過ぎ去っていく人間の言葉なんて、笑い飛ばすことだって、はっきりと言い返すことだって簡単にできた。それなのに、過去にかけられた何気ない一言は積み重なったままで、十代、二十代と、自分のキャラに合っているか、変だと思われないか、よく通る声でイジられないか、そんなことばかりに気を取られていた。それらは枷となり、多くの選択肢の中から好きなものを選んでいるはずなのに、無意識的なストッパーの役割を長く担っていた。
先日、三十三歳の誕生日を迎えた。年齢を重ね、経験を積み、以前よりもずっと図太い心を手に入れられたように思う。傷の治りは遅くなったもの、その傷を見て見ぬふりする仕草はお手の物だ。ほとんどの失敗は取り返せるということを、もう知っている。自立してから、だいぶ経つ。一生懸命働いて、稼いだお金をどうつかったって、誰かに文句をつけられる謂れはないんじゃないだろうか。
ふと思い立ち、ええい! 髪なんてそのうち伸びるだろ! と勢いにまかせて、当たり障りのなさそうな、肩につくかつかないかの髪の毛をうんと短く切って、生まれて初めてくるんくるんのパーマをかけてやった。
鏡の中の私は、外国の子供のようにも見えるし、大阪のおばちゃんのようにも見えた。見慣れていないせいで、いいのかどうかわからなかったが、(大丈夫、大丈夫)としつこいくらい自分に言い聞かせた。
翌日、ドキドキしながら仕事へ行くと、アルバイトの大学生の男の子に「パーマかけたんすか?」と声をかけられた。
気恥ずかしさから「毎朝セットするのが面倒でさ、パーマかけたら楽ちんかなと思って︙︙」と取り繕ったような言い訳をすると、彼は「めっちゃいいっすね! 似合ってますよ!」と事も無げに返した。
一回りも年上の、大して付き合いも長くない、お世辞を言ったところで何の得にもならない人間に対するあまりに真っ直ぐな言葉。これは本心だ。なんとなく、そう感じた。
ちゃんと正直な気持ちを言おう、言わなくちゃ、と勇気を振り絞る。
「なんかさ、かわいくなりたかったんだよね」と小さい声で本音をこぼすと、彼は「最高じゃないっすか」とはにかみながら答えてくれた。
生まれて初めて、私はほんとうに好きなものを選んでいいんだと思えた。
ものすごい愛
1990年生まれ、札幌市在住。エッセイコラムニスト、薬剤師。著書に『今日もふたり、スキップで ~結婚って”なんかいい”』(大和書房)、『命に過ぎたる愛なし ~女の子のための恋愛相談』(内外出版社)、『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』(KADOKAWA)がある。現在、恋愛メディアAMにて恋愛相談コラム『命に過ぎたる愛なし』を連載中のほか、様々なメディアにエッセイ・コラムを寄稿。